2歳児のshare(シェア)の概念

先日、妻の実家で家族旅行があり、妻と僕も参加させてもらうことになりました。その旅先で義兄の娘、2歳のチカちゃんの行動にハッと考えさせられることがありましたので綴りたいと思います。

 

旅行のメインイベントである海水浴から旅館に帰ってきて、めいめい冷房のきいた部屋でくつろいでいたとき、チカちゃんはおやつとしてお気に入りのスナック菓子「インカの目覚め」をパクパクと食べていました。

 

チカちゃんの遊び相手を請け負っていた妻がチカちゃんに「チカちゃん、それひとつちょうだい?」と手を出したところ、チカちゃんは迷うことなく妻の出した手にのせていました。その場面を見ていた僕の視線に気づいたのか、チカちゃんは僕にもくれようと一つ手にとり伸ばしてくれました。その優しさに僕は嬉しくてつい受け取り食べましたが、その時点でチカちゃんのお皿はもう残りわずかでした。ついに最後のひとつを食べ終わると、「もっと食べたい」とお母さんにねだりますが、旅行に持ってきているのはこれだけで「もうないよ」と伝えられると、チカちゃんはこの世の終わりかのような悲しい表情になっていました。

 

もしかすると、チカちゃんはお菓子が家と同じようにまだまだあると踏んでいたのかもしれません。もしくは親から人に「分け与える」ということをきつく教えられていたのかもしれません。ただいずれであれチカちゃんにとって、それがなくなってしまうとこの世の終わりになってしまうほどの強い痛みを伴う大事なものを、迷いなく他人と「share」をする。その2歳児の感覚に衝撃を受けました。

 

少し前からこれからの時代は「share」だ、「シェアリングエコノミー」だ、なんて言われております。アメリカのシリコンバレーから生まれた「インターネットで情報を共有することで所有に対するコストを省く」、この概念から世の中にはそのようなサービスが溢れかえっています。ソーシャルネットワークからはじまり、ユーザーがアプリで現在地を知らせると契約ドライバーが来てくれる配車サービス「Uber(ウーバー)」、都度空き部屋を貸し出す民泊サービス「Airbnb(エアビーアンドビー、エアビーエンビー)」など有名です。フリマサービス「メルカリ」など日本発のサービスも隆盛を極めており、世の中がどんどん便利になっているのを肌身で感じております。

 

多分にもれず私もその恩恵を受けている1ユーザーです。当然チカちゃんのような痛みを伴う「share」なんてものはやっておりません。インターネットを介して無限に拡散できる仕組みに乗り、有益な情報がより有益な情報を生み、加速度的にそのメリットを痛みなくノンストレスで享受することもできます。ただ、僕の中で忘れられない強く心に刻み込まれた「share」は、間違いなくチカちゃんからの1枚の「インカの目覚め」でした。

 

人はなにかを「share」してもらうときにそれに伴う相手の痛みの大きさも「share」することに、人間として当たり前の「share」の本質があると気づかされました。